舞踊の歴史



history

  ○ 歴史的に重要な出来事
  ● 舞踊に関する出来事
  ◇ 日本の歴史的に重要な出来事
  ◆ 日本の舞踊に関する出来事
  *  豆知識

近 世

バスダンス [Basse danses] :フランス
 14世紀に始まったバス・ダンスは、15〜16世紀に全盛期となります。

1310〜 ○ルネサンス
★イタリアで古代ギリシャ・ローマ時代の文明を理想として、復興させようとする、いわゆるルネサンスが起こる。この運動は、西ヨーロッパに普及し、ルネサンス時代とも呼ばれた。
 ヨーロッパ史では、ルネサンスが起こる以前を中世といい、その後を近世という。

アントルメ [Entremets] 
 貴族社会でアントルメ [Entremets] が流行する。アントルメは、現在はケーキなどを差すが、当時は、宴会の余興で給仕が料理を運びながら踊ることを言った。

盆踊り:日本
 念仏踊りが盂蘭盆会の行事と結びついて始まる。本来は、死者を供養する行事である。

●ライン河流域で舞踏病 [Chorea]が大流行する。
 舞踏病とは、神経性の病気のことで、自分の意識とは別に身体が勝手に動いてしまう奇病のこと。
 人々は熱狂的に踊り、狂い、死に至った。踊り狂う様を見ていた人がどんどんこの踊りの群れに入っていき、被害者はふくれあがった。15世紀、17世紀にも同様の現象が起こる。

1336 ◇日本:南北朝時代
〜1392  建武3年(1336)に後醍醐天皇が吉野に移ってから、後亀山天皇が京都にもどり南北朝が合体した明徳3年(1392)までの57年間、吉野の南朝(大覚寺統)と、足利氏の擁立する京都の北朝(持明院統)とが対立して争った時代。吉野朝時代。
 文化面では、ばさらに代表されるように、身分秩序を軽視し華美な振る舞いに走る傾向が見られた。また、連歌が流行し、二条河原落書など文化の庶民化への動きが見られた。

1339 ○英仏間に百年戦争はじまる(〜1453)
 フランスの王位継承問題が発端の戦争で、初めはイングランド側が有利だったが、ジャンヌ・ダルクの登場により、形勢は逆転した。結果的にイギリスは、大陸にあった領土のほとんどを失った。
 この長い戦争により、イングランド国家財政は大幅な赤字となり、その穴埋めとして王は農民に対して重税をかけた。農民の不満は高まり、農民一揆へと進む。

1381 ○イングランド: ワット・タイラーの乱
 農民に対する課税の強化、農民の自由を奪う農奴制の強化により、農民の不満は爆発し、ワット・テイラーをリーダーとして一揆を起こした。2度目の王との交渉の際にワット・テイラーはロンドン市長により殺害され、反乱は彼の死によって鎮圧された。

1392 ◇日本:室町時代
〜1467  足利氏が京都室町に幕府をおいて政権を保持した時代。
 足利義満は南北朝合一を遂げ、また日明貿易を行い明皇帝から日本国王に冊封された。義満は守護大名の勢力抑制に努めたが、守護大名の拡大指向は根強く、幕府対守護の戦乱が多数発生した。幕府-守護体制は15世紀中葉まで存続したが、応仁の乱によって大きく動揺すると明応の政変を契機としてついに崩壊し、戦国時代へと移行した。
 文化面では、連歌・猿楽・喫茶など身分を超えた交流に特徴付けられる室町文化が栄えた。この文化は禅宗の影響を受け、簡素さと深みという特徴も持っていた。

15世紀

1453 ○東ローマ帝国の滅亡
 オスマン・トルコが東ローマ帝国を滅ぼしたことにより、東ローマ帝国の歴史は終わった。

〜1453 ○英仏間の百年戦争終戦
 フランス側の勝利に終わり、イギリスは大陸にあった領土のほとんどを失った。

1455 ○イングランドでばら戦争
〜1485  ランカスター家とヨーク家による権力闘争。ランカスター家は赤いバラを紋章とし、ヨーク家は白いバラを紋章としていたので、ばら戦争といった。
 百年戦争は、英仏間の王位継承の戦いであり、ばら戦争はイギリス内での王位継承の戦いであった。

ガイアルド [Gaillarde] :フランス
 フランスにてガイアルド が起こり、ヨーロッパで流行する。速い3拍子の活発なカップルの踊り。ダンサーは、飛び跳ねて踊る。ゆっくりとした踊りであるバヴァームの後に演奏されることが多い。
 最初は大衆の踊りであったが、宮廷舞踊に取り上げられた。足をチェンジさせた時、逆足を膝を伸ばしポーズする。
 エリザベス女王は、ガイアルドの上手な踊り手として有名であった。

●イタリア。歌と踊りを統合したバレッティ [Balletti]が起こる。
 これは、フォークダンスのバッロ [Ballo] が元となっている。

〜1485 ○イングランド:ばら戦争終戦
 ランカスター派のデューダーが、リチャード3世を打ち破り、ヨーク家と和解した。
★イングランドは、フランスとの100年戦争と内戦である薔薇戦争によって、財政難となり、また貴族の数も激減した。

1467 ◇日本:戦国時代
〜1568  戦国大名が多く登場し、中世的な支配体系を徐々に崩し、分国法を定めるなど各地で自立化を強めた時代。応仁の乱開始のころから織田信長が将軍足利義昭を追放して天下統一に乗り出すまでの約1世紀。
 日本各地に地域国家が多数並立し、地域国家間の政治的・経済的矛盾は、武力によって解決が図られた。
 この時代は、農業生産力が向上するとともに、地域国家内の流通が発達し、各地に都市が急速に形成されていった。また、ヨーロッパとの交易(南蛮貿易)が開始し、火縄銃やキリスト教などが伝来し、それまでの戦術や日本の宗教観念に大きな影響を与えた。

1492 ○コロンブスが新大陸を発見

1498 ○バスコ・ダ・ガマがインド航路を発見

16世紀

パバーン [Pavane] :イタリア
 ゆっくりと優雅な4拍子の踊り、パバーンが流行する。

ガボット [Gavotte]  :フランス
 農民舞踊のガボット [Gavotte] が起こる。

ボルタ [Volta]  :フランス・プロバンス地方
 フランス南東部のプロバンスでボルタ が起こる。
 この踊りは、男女の抱擁ダンスであり、お堅いカソリックの神父たちはこの踊りを否定した。

●フランスでブランル [Branle]が踊られる。
 16世紀前後にフランスを中心に踊られる様になった集団舞踊。男女のカップルが複数組でサークルを作って踊る輪舞である。陽気で飾り気のない踊りが、祝祭日などに大いに踊られた。ブランルとは、「揺れる」という意味で、ブランコと同じ語源からきている。
 通常、4曲のブランルがセットとして演奏された。ブランル・ドゥーブル(ダブル・ブランル)、ブランル・サンプルブランル・ゲイ(3拍子)、速い演奏のブランルの4曲である。
 後には、宮廷の舞踊会に於ける第一曲目で踊られるようになった。

クーラント [Courante] :フランス
 3拍子系のクーラント [Courante] が起こる。
 3/2、6/4 拍子の宮廷舞踊が誕生。クーラントは行列ダンスで、男女が離れて立ち、前半では手をとらずに踊る。後半は、男女で手をとって、LODをホップ・ステップで前進する。女性を手の下で回したりもする。全体を通してボールで踊る。
 2拍子のアレマンドの後に演奏され、アレマンド+クーラントはセットで踊られることになる。また、ルイ14世の頃には、舞踏会においてオープニングのブランルの次に踊られた踊りであり、人気のあった。しかし、メヌエットの誕生によって2番目の座は奪われた。

カナリー [Canary]
 活発な宮廷舞踊のカナリー [Canary] が起こる。

アルマンド [Allemande] :ドイツ
 2拍子系の輪舞アルマンド [Allemande] が起こる。
 スイスでは、訛ってアレワンダー [Allewander] という。

サラバンダ [Zarabanda] :スペイン
 中米のサラバンダがスペインに渡って流行し、サラバンド [Sarabande] となる。その後、ヨーロッパに普及する。重々しい3拍子系。元は女性による激しい踊りだったが、フランスに入ってからは少しおとなしくなる。

1519 ○マゼラン船隊が世界一周(〜1522)

1524 ○ドイツ農民戦争(〜1525)

1532 ○南米アンデス、インカ帝国の滅亡
 スペインのピサロによって征服された。

1533 ●カトリーヌ・ド・メディシスがフランスへ
 歴史的にも、舞踊史上においてもカトリーヌの存在は大きい。
 イタリア・フィレンチェのカトリーヌ・ド・メディシスが、フランスの第二王子と結婚することによって、イタリアの先進の文化がフランスに流れた。フォークとナイフといった食事道具(カトラリー)、アイスクリーム(ジェラート)、マカロンなどのデザート、建築様式はカトリーヌによって、フランスに持ち込まれた。
 当時のフランスは、イタリアにとっては「野蛮な国」とされていたため、カトリーヌの父親が心配して、料理人をカトリーヌに同行させ、不自由のない様に生活道具一式を届けたことによる。

 → このことによって、イタリアのルネサンスが、フランスに広がった。

 カトリーヌの夫は第二王子であったが、第一王子が毒殺されたため、アンリ2世として王位をついだ。アンリ2世の死後、息子たちが王位を継いだため、カトリーヌは摂政として30年もの間フランスの実権者となった。
 この政治の中でカトリーヌは、フランスの宗教戦争(ニグノー戦争)に大いに関わっている。宗教戦争とは、カトリックとプロテスタントの戦いであるが、このニグノー戦争は王権の勢力争いも絡んでおり複雑である。

●イタリアのバレッティがフランスに渡り、バレエ [Ballet] と呼ばれる。
 カトリーヌによって、様々な宮廷舞踊とバレッティがフランスに入った。

1558 ○イングランドにおいて、エリザベス一世が女王となる。

1568 ◇日本:安土桃山時代
〜1600  織田信長は室町将軍足利義昭を放逐し、室町幕府に代わる畿内政権を樹立した。しかし、信長が本能寺の変により滅ぼされると、天下統一事業は豊臣秀吉が継承することとなった。
 長い戦国争乱の状態から急速に統一が達成され、自由な人間中心の文化が展開。雄大な城郭・社寺などが造営され、内部を飾る華麗な障屏画が描かれる一方、民衆の生活を題材とした風俗画のジャンルが確立。芸能では茶の湯の大成、能の隆盛、浄瑠璃の発達などをみた。また、南蛮文化の影響も重要。

1568 ○オランダ 独立戦争
 15世紀末より、ハプスブルク家のスペイン領土として植民地化されていたが、宗主国スペインによる重税政策に対する反発とともに、主に現在のオランダ地域を中心とするネーデルランド北部地方の宗教は利潤追求を求めるカルヴァン派が多数を占めていたため、カトリックを強制する宗主国スペインとの間で1568年にオランダ独立戦争が勃発した。

●イングランドにて、イングリッシュ・カントリー・ダンス [English Country Dance]が流行する。

1571 ○スペイン人がフィリピン群島を占領し、マニラ市をつくる。
 スペインは、マニラを中心として植民地化し、フィリピンを貿易の拠点として発展させた。スペインの影響により、フィリピンはローマ・カトリック教となる。
★フィリピンは19世紀末までスペインの支配下にあったため、文化的にもスペインの影響が大きい。当然踊りもスペイン風のものが数多く伝承されている。

ポロネーズ [Polonaise] :ポーランド
 16世紀後半。ポーランド王国宮廷にて、ポロネーズ [Polonaise] が起こる。2拍目にアクセントのあるゆっくりとした3拍子の踊り。主に舞踏会の入場の際に使われた。

1585 ○イギリス人が北アメリカ南部のバージニアに上陸し、植民地を開く。

1596 ○オランダが東洋に殖民を始める。

1600 ○イギリスが東インド会社を設立。

17世紀

ポルスカ [Polska] :スウェーデン
 ポーランドの踊りの影響を受けて、スウェーデンでポルスカ [Polska] が踊られる。

ファンダンゴ [Fandango] :スペイン
 シシリアのフェニキア人がルーツといわれ、スペインにはアメリカ・インディアン経由で入ってきた。3/8、3/4拍子のカスタネットのリズムで踊る。男女の恋愛のかけひきの踊り。

1603 ◇日本:江戸時代
〜1867  関ヶ原の戦いで石田三成を中心とする一派を破った徳川家康が征夷大将軍に任ぜられた慶長8年(1603)から、徳川慶喜が大政を奉還して将軍職を辞した慶応3年(1867)までの、江戸に徳川幕府の存続した265年間。家康が関ヶ原の戦いに勝利を収めた慶長5年を始期とする説もある。徳川時代。
 江戸時代は文化の担い手が庶民にまで拡がり、歌舞伎、俳諧、浮世絵、お陰参り(伊勢神宮参り)などが盛んになったほか、寺子屋や藩校で広く教育が行われた。

1603 ●日本:出雲のお国
 歌舞伎の祖、出雲のお国が京都にて評判になる。

1610 ○フランス、ルイ13世が即位する。
 ルイ13世はダンスの愛好家であった。子供の頃から踊りを愛し、踊りの普及、発展の中心人物となった。しかし、その息子であるルイ14世は父親以上の熱心さでダンスを愛し踊ったことで有名である。

パバーンが衰退し、ボルタは無作法だとしてルイ13世によって禁止される。

1620 ○イギリスの清教徒がメイフラワー号で北アメリカ東部に移住
 上陸した土地に、ニューイングランドと名づけた。この地に住み着いた人々は、イギリスにおける生活様式を固持し、踊りもイングリッシュ・カントリー・ダンスを中心に踊った。それが、後にコントラ・ダンスとして定着した。

1643 ○フランス、ルイ14世が即位する。(〜1715)

●フランス、ルイ14世即位
 ルイ14世は、父親のルイ13世以上にダンス愛好家であり、子供の頃から様々な踊りを披露して、周囲を驚かせていたらしい。1653年の夜の舞踏会の舞台において、ルイ14世は、ギリシャの太陽神アポロンの役を熱演したことにより、「太陽王」の異名がある。

●ピエール・ポーシャンの活躍 :フランス
 ルイ14世のダンス教師が、有名なピエール・ポーシャンである。ポーシャンは多くのダンスを創作したが、一番のヒット作は、メヌエットである。それまでの舞踏会でのカップル・ダンスでは、クーラントを踊るのが通例であったが、メヌエットの登場によって、カップルの主流はメヌエットになった。
 ポーシャンは、ダンスに熱心に取り組むルイ14世に仕えるとともに、ダンスにおける5つの足のポジションを設定した。この足のポジションは、メヌエットの流行によってヨーロッパ中に知れ渡り、多くのダンスに影響し、現在でもダンサーの重要な基本となっている。

メヌエット [Menuet] :フランス
 フランス西部のポワトー地区のフォークダンスを元にして、ピエール・ポーシャンが手を加え、宮廷舞踊メヌエット [Menuet] が起こる。メヌエットは、ヨーロッパ中に流行し、ドイツではメヌエット [Menuett]、イギリスではミヌエット [Minuet]、イタリアではミヌエット [Minuetto] と呼ばれた。

ガボット [Gavotte] :フランス
 フランスにて、2拍子系のガボット [Gavotte] が宮廷舞踊として流行する。

リゴドン [Rigaudon] :フランス
 フランスのプロヴァンス地方にリゴドン [Rigaudon] が起こる。

ブレー [Bourree] :フランス
 フランス。2拍子系のブレー [Bourree] が起こる。

アレマンド [Allemande]の流行:ドイツ〜フランス
 ドイツで踊られていた宮廷舞踊アルマンド [Allemande]がフランスで流行する。アルマンドとは、フランス語で「ドイツ風」の意味。ドイツでは2拍子だったが、フランスでは4拍子に変わる。

1648 ○フランス、フロンドの乱 (〜1553)
 貴族による反乱のこと。

1648 ○オランダがスペインより独立

1649 ○イギリスの王政が倒れ、クロンウェルの共和制が始まる。
〜1660
1651 ●「ダンシングマスター」発行
 イングランドの舞踊研究者であるプレイフォード氏によって、イングリッシュ・カントリー・ダンスの手引書が発行された。これには、踊り方と譜面が100曲以上も紹介せれており、踊りの普及に貢献した。

1660 ○イギリス:王政復活

1661 ●フランス:ボーシャンが王立音楽舞踊学校をパリに創設する。

1671 ●フランス:オペラ座設立。
 バレエが宮廷から劇場上演に変わる。

1680 ○ベルサイユ宮殿が完成
 バロック建築の代表作。
 フロンドの乱などの貴族の反乱で悩んだルイ14世が、その対策として貴族を一箇所に集めて監督するため、ベルサイユ宮殿をパリから少し離れた場所に建築した。
 この新しい宮殿の敷地内には、約2万人の家が建てられ、貴族たちはその家を求めて競い合った。貴族にとってベルサイユに住むことは、最高のステイタスであり、逆にベルサイユを追い出されることは致命的であった。
★ベルサイユに住んだ貴族たちが日常生活で楽しんでいたのがダンスである。貴族たちは、連日の様に踊り、交流を深めた。踊りを趣味としていたルイ14世は、舞踏会を折に触れて開催し、ベルサイユ宮殿はヨーロッパの舞踊流行の中心地となった。

ブランル [Branle] :フランス
 ベルサイユ宮殿で開かれた舞踏会のオープニングでは、ブランルが踊られた。これは、18世紀までの宮廷の公式舞踏会では、共通のプログラムである。
 初期のブランルは、全員でサークルを作って飛び跳ねて踊る粗野な感じだったが、ベルサイユ宮廷で踊られたブランルはかなり異なる。まず、男性ラインと女性ラインを作って入場する。この時、王の後ろに男性が並び、王妃の後ろに女性が、位の高いものから並ぶ。会場に入り、サークル状になり、王と王妃のカップルが円内に出て、1カップルのみが踊る。次に位の高いカップルが続いて踊る。この後も位の順に1カップルづつ円内に出て踊る、という風にまるで顔見せの様に踊ったようである。
 ブランルの次には、カップル・ダンスが踊られた。この時も身分の順に1組づつ踊られた。まず、王と王妃が踊り、次に王妃と王の次に身分の高い男性が踊る。続いて身分の高い男性と王妃の次に身分の高い女性が踊る、という風に順々に1組づつカップル・ダンスを披露した。他の全員は、椅子についたり、壁際に立って踊りを見守った。いや、見守ったというより、それぞれのダンス・テクニックやスタイルをチェックしていた。
 ルイ14世の若い頃、このカップル・ダンスは、クーラントだったらしい。ダンスの天才であったルイ14世は宮廷の中で、最も上手だったそうである。そして、メヌエットが完成してからは、メヌエットが2番目の踊りとなり、ブランルメヌエットはベルサイユ宮殿での重要なプログラムとなった。

●17世紀末頃、イングリッシュ・カントリー・ダンスが、フランスに入ってくる。

18世紀

フラメンコ [Flamenco] :スペイン
 18世紀末頃、スペインのアンダルシア地方で踊られる様になった。歌、踊り、ギターの伴奏が主体となっている。フラメンコの歴史と発展にはヒターノ(スペインジプシー)が重要な役割を果たしている。さらにさかのぼると、ムーア人(北西アフリカのイスラム教教徒のこと)の影響もみられる。

コントルダンス :フランス
 フランスでは、宮廷舞踊が衰退し、イングリッシュ・カントリー・ダンスが流行する。
 ただし、カントリー・ダンスという言葉はフランス貴族には好まれず、コントルダンスという名称がつけられた。カントリーという言葉には、田舎の意味合いもあり、貴族としては納得がいかなかったことと、これまでフランスがダンスの流行源だったため、イングランド産の踊りを踊ることに抵抗があったことによる。

シャコンヌ [Chaconne] :スペイン
 スペイン、シャコンヌ [Chaconne] が流行する。3拍子の踊り。

フルラーナ [Furlana] イタリア、ヴェネティア
 フルラーナは、6/8拍子の激しい求愛ダンスで、タランテラに似ているが野生的で不統一である。

1706 ●フランス、パリ。「コントルダンス・ブック」出版
 ボーシャンの弟子であるフェイレによって、「コントルダンス・ブック」が出版される。

1707 ○グレートブリテン王国、成立
 イングランド+スコットランド

●コントルダンスの広がり
 フランスのコントルダンス [Contre danses] が、スペインでコントラダンザ [Contra Danza]、ドイツでコントレタンツ [Contretanz] となり、ヨーロッパ中に流行する。

1713 ●フランス。オペラ座にバレエ学校が創設され、バレエ教育が確立する。

1715 ○フランス、ルイ15世が即位する。
〜1774  ルイ14世が没後、ルイ15世が即位する。
 ルイ15世は、パリ郊外にあったベルサイユ宮殿をパリに移した。

18世紀後半 コチロン [Cotillon] :フランス
 フランス。スクエア隊形の踊り、コチロン [Cotillon] が起こる。

18世紀後半 カドリール [Quadrille] :フランス
 コチロンが発展し、カドリール [Quadrille] となり流行する。

1756 ○ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト [ Wolfgang Amadeus Mozart ]
〜1791  クラシック音楽の古典派を代表とする大作曲家であるモーツァルトが、オーストリアのザルツブルクに誕生した。モーツァルトは、3歳にしてクラヴィーア(ピアノの前身)を弾き始め、5歳にして作曲を始めたという天才であった。

1760 ○イギリスの産業革命(〜1840)

1770 ○ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン [ Ludwig van Beethoven ]
〜1827  クラシック音楽の古典派音楽の集大成とされ、楽聖と称されるベートーヴェンが、ドイツのボンに誕生した。モーツァルト、ハイドンの弟子となった記録がある。20歳後半に難聴となり、一時は音楽生命を断たれたが、強靭な精神力をもってこの苦悩を乗り越え、再び生きる意思を得て新しい芸術の道へと進んでいくことになる。

1774 ○フランス、ルイ16世が即位する。(〜1792)
〜1972
★ルイ16世の后が、マリー・アントワネットである。
 マリー・アントワネットは、ウィーンの生まれで、踊りや音楽演奏などを得意としていた。妃になってから、ルイとの不仲、不妊からその寂しさを紛らわすために連日舞踏会で踊り明かしたという。

1776 ○アメリカ独立宣言

1783 ○パリ条約 〜イギリスがアメリカの独立を承認

1789 ○フランス革命
 ルイ14世から始まった貴族の無駄使い、外国との戦争、外交などによってフランスは財政難となった。大赤字となったのである。しかし、農民からは取れるだけ取ってしまったため、これ以上しぼりとることもできず、やむを得ず、聖職者や貴族階級から税金をとろうとした。だが猛烈に反対され、聖職者、貴族、農民から代表者を選び話し合いによって解決しようと試みた。
 しかし、会議はまったく進行せず、事態は悪化するばかり。ついに農民が貴族に対して攻撃を始めた。さらに、王妃であるマリー・アントワネットが農民を侮辱する様な発言をしたため、一気に農民の怒りが爆発する。飢餓に苦しむ農民に対し、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と言った彼女の言葉は有名。
 フランス革命はバスチーユ牢獄の襲撃から始まり、封建的特権の廃棄、人権宣言、王制の廃止へと続いた。この頃、フランスを囲む各国は、自分の国に革命が飛び火することを恐れ、フランス革命側を攻撃、フランス革命戦争へと発展した。
 その後もルイ16世、マリー・アントワネットをギロチンで処刑、恐怖政治が始まる。連日、数百人もの貴族たちが処刑された。
 最終的には、1799年のナポレオンによるブリュメールのクーデターによって、総裁政府が倒れ、ナポレオンが政権をとって革命は終わった。
 → フランス革命によって王制、封建制度は廃止された。

カルマニョーン:フランス
 フランスでカルマニョーンが流行する。ファランドールのように鎖状に連なって踊る荒々しい踊り。

●4拍子であったアルマンド [Allemande]が、3拍子に変わる。

レンドラー [Landler] :チロル地方
 ドイツ、アルプス地方にて、民族舞踊レンドラー [Landler] が盛んに踊られる。

1800 ○グレートブリテン・アイルランド連合王国、成立

19世紀

ファンダンゴの衰退:スペイン
 スペインを中心に流行していたファンダンゴが、あまりにも官能過ぎるとして踊られなくなった。

マズルカ [Mazurka] :ポーランド
 元は農民の踊りだったマズルカ [Mazurka] が、ポーランドの貴族の間で流行し、ヨーロッパ中に普及する。3拍子系の活発な踊り。

ポロネーズ [Polonaise] ヨーロッパ普及
 16世紀後半にポーランドで起こったポロネーズ [Polonaise] が、ヨーロッパ中に普及する。舞踏会での入場の定番曲となる。

ショーティッシュ [Schottische] :ドイツ
●ドイツでショーティッシュ [Schottische] が流行する。ショーティッシュとは、「スコットランド風」の意で、陽気で元気のいいカップル・ダンス。元は、ドイツのラインレンダー [Rheinlander] という踊りである。

オールド・タイム・ダンス [Old Time Dance] :イギリス
 オールド・タイム・ダンスとは、同一のシークエンスを持つカップル・ダンスのこと。

○ショーロ[Choro] :ブラジル
 ブラジルのリオデジャネイロ市に軽音楽の一つのジャンルであるショーロが起こった。ギターとフルートを中心とする即興を重視した音楽である。「ブラジル版のジャズ」とも言われる。

1804 ○フランス:ナポレオン皇帝が即位

1814 ワルツ [Waltz] :ヨーロッパで流行し始める。
 13世紀頃、チロル地方で踊られていたヴェッラー[Weller]というカップル・ダンスが発展し、ワルツに発展した。
 ワルツの流行は、1814年のウィーン会議からである(ウィンナー・ワルツ)。その後イングランドに渡ったワルツは、音楽が遅くなり、優雅な踊りへと変化した。

1826 ○アメリカ:作曲家フォスター誕生(〜1864)
 草競馬、おおスザンナ、ネリーブライなど、多くのヒット作を作曲した。それらの曲には、フォークダンスが振付けられた。

1830 ポルカ [Polka] :チェコ
 チェコのボヘミアで、2拍子系の回転舞踊ポルカ [Polka] が起こる。
 その後、インターナショナル・ダンスとしてヨーロッパ、アメリカに広く普及した。

ワルツ、カドリール、ランサーズ、コチロンなどが、舞踏会でよく踊られた。カントリー・ダンスはヨーロッパでは踊られなくなった。

バルソビアナ [Varsovienne] :ポーランド
 ポーランドのワルシャワで、マズルカ系のバルソビアナ [Varsovienne]が流行する。バルソビアナとは、ラテン語でワルシャワの意味であり、この踊りに出てくるポジションが、バルソビアナ・ポジションとして定着した。

1861 ○アメリカ、南北戦争勃発
〜1865  奴隷制と関税の問題でアメリカが南北に分かれて戦う。終戦は、1865年。

1863 ○リンカーンによる奴隷解放宣言

タップ・ダンス [Tap Dance]:アメリカ
 アイルランド移民の踊りと黒人の踊りが融合し、タップ・ダンスが起こる。後にタップ・ダンスが変化し、ジャズ・ダンスとなる。

19世紀後半 タンゴ [Tango] :アルゼンチン
 19世紀後半、アルゼンチンのブエノスアイレス付近にタンゴ [Tango] が起こる。

1867 ○オーストリア・ハンガリー帝国が誕生する。

1868 ◇日本:明治時代
〜1912  倒幕派の諸藩を中心とする維新政府は戊辰戦争を経て旧幕府勢力を退けると、明治新政府を樹立した。
 新政府は天皇大権のもと欧米の諸制度を積極的に導入し、廃藩置県、身分解放、法制整備、国家インフラの整備など明治維新と呼ばれる一連の改革を遂行した。
 新政府は不平等条約の改正を目指し、帝国議会の設置や大日本帝国憲法の制定など国制整備に努める一方で、産業育成と軍事力強化(富国強兵)を国策として推し進め、近代国家の建設は急速に進展した。日本は、日清戦争と日露戦争に勝利を収めた後、列強の一角を占めるようになり、国際的地位を確保していく中で台湾統治や韓国併合を行なった。
 文化面では、欧米から新たな学問・芸術・文物が伝来し、その有様は文明開化と呼ばれた。それまでの日本に存在しなかった個人主義に基づく小説という文学が登場するなど、江戸時代以前とは大きく異なった文化が展開した。宗教面では従来の神仏混交が改められ(神仏分離)、仏教弾圧などの動きも見られた。

1883 ◆日本。東京に鹿鳴館が建設され、舞踏会が開催された。
〜1889  外交施設、各種行事開催の場として開館されたが、退廃的と世間から非難され、1889年には閉館した。

1890 ○アメリカ、ニューオーリンズ。黒人の間でジャズが起こる。

1890〜 カンカン [Can Can]:フランス
 フランスでカンカンが流行する。踊り子たちが足を高くけり上げて踊るライン・ダンス。
 フレンチ・カンカンとも。「天国と地獄」の音楽が有名。
1897 ●黒人の間でケーキウォークが流行する:アメリカ
 ダンス・コンテストが行われ、その景品がケーキだったことからのネーミング。ケーキを運ぶステップではない。特にケリー・ミルスの「ジョージァ・キャンプ・ミーティング」で踊ることが流行る。

1890 ○スウェーデンのストックホルムにスカンセンが作られる。
 スカンセンとは、スウェーデンの文化の中心で、公園・レジャー・博物館などがある。ここに、歌や踊りなどの資料が集められた。

20世紀

ワルツ、カドリールなどが衰退する。

コンチネンタル・タンゴ:ヨーロッパ
 19世紀後半にアルゼンチンで生まれたタンゴ [Tango] がヨーロッパで流行する。

チャールストン [Charleston]:アメリカ
 アメリカ。黒人の間で、初期のジャズに合わせて軽快に踊る チャールストン [Charleston] が起こる。

1911 ●英国民族舞踊民謡協会 (EFDS) 創立
 イングランドで、セシル・シャープ氏が創始者となり、創立された。

1912 ◇日本:大正時代
〜1926  日本は日英同盟に基づき第一次世界大戦に参戦して勝利し、列強の一つに数えられるようになった。大正デモクラシーと呼ばれる政治運動の結果、アジアで最初の普通選挙が実施され政党政治が成立したが、同時に治安維持法が制定され共産主義への弾圧が行われた。日本は大戦特需による未曾有の好景気に沸くが、大戦が終わるとその反動による深刻な不景気に苦しみ、そこに関東大震災が追い討ちをかけた。

1914 ○第一次世界大戦勃発

1917 ○日本: YMCAによるフォークダンスの指導

1917 ○ラ・クンパルシータが初演奏される:ウルグアイ
 アルゼンチン・タンゴの代表曲であるラ・クンパルシータがロベルト・フィルポによって演奏された。

1918 ○ハンガリー王国滅亡
 第一次世界大戦に敗れ、領土の多くを失う。

1922 ◆日本で社交ダンスが大流行する。

1923 ●スコティッシュ・カントリー・ダンス協会 (SCDS) 創立:イギリス・スコットランド
 スコットランドで、ジーン・ミリガン女史が創始者となり、スコティッシュ・カントリー・ダンス協会が創立された。

1926 ◇日本:昭和時代
〜1989  大正期から続いた不景気に世界恐慌が直撃し、社会不安が増大した。政党政治に代って軍部が力を持ち、満州を占領して満州国を樹立し、やがて中華民国との日中戦争に発展した。これがアメリカやイギリスの反発を招いたため、日本は国際連盟を脱退し、ドイツ、イタリアのファシスト政権と三国同盟結び、第二次世界大戦に突入した。
 日本軍はアメリカ軍の物量と通商破壊戦に圧倒され、原子爆弾を投下されて第二次世界大戦に敗れた。戦後は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領下に置かれ、象徴天皇制、国民主権、平和主義などに基づく日本国憲法を新たに制定した。サンフランシスコ平和条約により主権を回復した後、冷戦下の西側陣営として日米安全保障条約を締結した。自民党と社会党の保革55年体制のもと、高度経済成長を経て経済大国の仲間入りを果たした。昭和末期にはバブル景気と呼ばれる好景気に沸いた。

1926 ●学校教育にフォークダンスが取り入れられる。

○カントリー・ミュージックの流行:アメリカ
 カントリーとは、ケルト音楽、ヨーロッパの伝統的な民謡、霊歌や賛美歌などが融合して誕生した音楽である。
 演奏には、ギター、マンドリン、ハーモニカ、アコーディオン、バンジョー、フィドルなどが使われた。

1939 ○第二次世界大戦勃発
 日本、ドイツ、イタリアなどの枢軸国とイギリス、アメリカ、フランス、ソ連などの連合国との世界的規模の戦争。場所は、太平洋とヨーロッパ。終戦は、1945年。

1940 ジルバ(ジターバグ)[Jitterbug] :アメリカ
 自由で活発なカップル・ダンスで、ブギ・ウギやスィング・ジャズの伴奏で踊った。

1940年代 ○ブルーグラス:アメリカ
 アメリカ・アパラチア南部で起こったケルトの影響の強い民謡スタイルの音楽。カントリー・ミュージックとは異なり、他の音楽との融合がない。

1945 ○ポツダム宣言 7月26日
 アメリカ、中国、イギリスが大日本帝国に対して第二次世界大戦終結に関する勧告を発した。
 8月10日に日本が宣言を受け入れ、8月15日に玉音放送によって日本国中に敗戦の放送がされた。
 しかし、中国、ソ連との戦争が続いたため、9月2日に天皇はポツダム宣言受諾、調印と日本軍に対する無条件降伏を命令した。

◇日本: GHQによる日本の間接的統治
 GHQ=連合国軍最高司令官総司令部 指揮官=マッカーサー元帥 
 マッカーサーは、8月30日に厚木飛行場に到着した。
 1945年9月から1952年4月28日まで日本を間接的に統治した。
 具体的には、戦争犯罪者の逮捕、軍人・軍に協力的であった政治家、思想家の公職からの追放、報道の管理、戦争放棄を主にした日本国憲法の作成、民主化、農地改革(大地主をなくし土地を分配)、教育方針の矯正など。
 また日本人愚民化の手段として、3S政策がある。3Sとは、スクリーン、スポーツ、セックスのことで、趣味・道楽を持たない日本人に映画、野球、性風俗(赤線)などを与えて、政治への関心を持たせないようにした。
 「レクリェーション運動」の推進も行われた。「日本レクリェーション協会」を設立し、GHQの指導のもと、野球、ゴルフ、卓球などのスポーツ、ゲーム・ソングを中心としたレク活動、そしてフォークダンスを全国に広めた。
 1948年には、大阪、京都、福岡、長崎などにフォークダンスが定着し、次第に全国の青年によって踊られるようになり、若者の娯楽として普及した。

1940代半ば ○アメリカ: リズム・アンド・ブルーズ誕生
 リズム・アンド・ブルースとはアメリカの黒人によるポップスのこと。R&B。
 リズム・アンド・ブルースから、後にロックン・ロール、ロック、ソウル・ミュージックなどが生まれた。

1947 ◆日本:スクエア・ダンスが流行する。
 アメリカのグループ・ダンスであるスクエア・ダンスが日本で流行した。来日していたGHQの軍民間教育担当官ウインフィールド・P・ニブロ氏により伝達された。
 この頃は、フォークダンスという名称よりもスクエア・ダンスの方が一般的だった。

1953 ●小・中・高の体育にフォークダンスが導入される。

1950代半ば ○アメリカ: ロックン・ロール誕生
 黒人音楽とケルト音楽との融合によって生まれた音楽で、若者の間で爆発的に流行した。主に白人による歌と演奏を指し、同じ様式の音楽でも黒人が歌えば、リズム・アンド・ブルースと言われた。エリビス・プレスリーが有名。
 ロックとは、最初はロックン・ロールの略語として使われていたが、後には1960年代に登場した新しい感覚のロックン・ロールのことをロックと言うようになった。
 ロックン・ロールに合わせて、エネルギッシュなダンスが踊られた。ソロとカップルの踊りがある。

1956 ◆日本フォークダンス連盟創立
 社団法人日本フォークダンス連盟は、文部省から許可された国内唯一のフォークダンス団体である。

1956 ◆日本:マイケル・ハーマン氏一行来日+講習
 マイケル・ハーマン氏は、アメリカ国務省からの使節派遣である。
 この時、ネルダ・リンディ(後に結婚してネルダ・ドゥルリーになる)女史も来日し、メキシコ・ダンスの講習をおこなう。

1957 ●日本:リッキー・ホールデン氏来日+講習

1961 ○ドイツ: ベルリンの壁
〜1989  ベルリン経由で西側諸国への亡命を防ぐため、1961年東ドイツ政府が構築した。

1962 ○イギリス: ザ・ビートルズがレコード・デビュー
〜1970  イギリスのリバプールで、ビートルズがデビューした。4人の若者のサウンドは、世界のポピュラー音楽の流れを変えた。
1963 ◆日本:グーリッド・カドマン女史来日+イスラエリ・ダンス講習

1970 ●ハンガリー:「ダンス・ハウス運動」が起こる。
 都市部に住む若者たちを中心に起こった運動で、民族音楽を歌い、演奏し、それに合わせて踊ることを普及させた。

1980年代 カントリー・ダンス [Country Dance] 流行:アメリカ
 アメリカには、カントリー・バーやナイト・クラブが都会にも地方にもあり、そのほとんどにダンス・フロアが設けてある。そこでカントリー・ダンスが流行した。カントリー・ダンスは、カントリー・ミュージックに合わせて、振りつけられた同じ踊りを全員が踊る。現在は、カントリー・ツー・ステップというカップル・ダンスが主になっている。これは、クイック・クイック・スロー・スローというリズムで踊る。

1989〜 ◇日本:平成時代
 昭和末期から続いたバブル景気が崩壊し、その後の長期にわたる不況は失われた10年と呼ばれ、経済面での構造改革が進められた。政治面では冷戦が終結した結果、自社両党による55年体制が崩壊し、非自民連立内閣が成立した。
21世紀を迎え、グローバル化やネット社会の拡大なども相まって、戦後一貫して進んできた文化・生活の多様化が、一層進展している。

1989 ●ドイツ: ベルリンの壁崩壊
 11月19日。ドイツを東西に分けていたベルリンの壁が市民により破壊される。

1990 ●日本: フォークダンス愛好者の高年齢化
 日本のフォークダンス・サークルへの新規入会者のほとんどは中高年者となり、若者はフォークダンスに関心を示さなくなった。自然にフォークダンサーの高年齢化が進んだ。
 また、男性の入会が減り、フォークダンサーのほとんどは女性になった。

1995 ○日本: 地下鉄サリン事件
 カルト教団オウム真理教が、東京地下鉄にて毒ガスのサリンを使って無差別テロを起こした。12名が死亡し、5510人が重軽傷を負った。この事件は世界中を震撼させた。

21世紀

2005 ○動画共有サービスのYouTube が公式にサービスを開始
 これまで収集が困難であったフォークダンスの動画が大量にアップされ、誰もが手軽にインターネットを通じて、フォークダンスの動画を見ることができる様になった。

2006 ◆日本フォークダンス連盟創立50周年記念行事開催
 開催地横浜において、盛大に実施された。

2007 ●日本、アタナス氏マケドニア・ダンス講習会
 アタナス氏は、今年で81歳になる。マケドニアだけでなく、チェーン・ダンスの魅力を日本のフォークダンス愛好者に伝えた功績は大きい。


●2008-11-25-000
●2009-07-07-001