イングリッシュ・カントリー・ダンスの歴史




●古代
 古くはブリタニアと呼ばれ、ケルト人・ローマ人が支配していましたが、
 11世紀にアングロ・サクソン人によって、統一国家がイングランドに成立しました。
 イングランドは、キリスト教が入ってきてからも、昔からの宗教や儀式、お祭り、生活習慣を残しており、
 それぞれのコミュニティでは、コミュニティのための踊りが生まれ発展しました。
 ケルト人のリール、バイキングの踊りなどが元となり、それにローマの影響もあって変化した様です。

○中世
 中世のころ、イングランドは封建制度をとっていました。
 封建制度とは、国王、領主、家臣による主従関係のことで、
 国王が領主に土地を与え、その代償として領主が国王に対し忠誠を誓うものです。
 領主と家臣との間にも同様の契約がありました。
 領主とは、貴族と教会のことであり、家臣は騎士とも言いました。
 この封建制度で実際に農業を行うものは、農奴と呼ばれた人々であり
 奴隷に近く、職業の選択や、転居の自由がなく、
 領主や教会に対して税金を納める義務がありました。
 領主にこき使われ、鞭打たれ、粗末な食事に粗末な衣服、
 無教養で非常に貧しい一生を送った人々です。
 この封建制度は、18世紀の産業革命のころまで続きました。
 中世の末期、教会の権威が弱まり、踊りに対する圧力もなくなり、踊りの形態が洗練されて、
 チェーン、サークルの踊りから、男女のカップルが単位となり、
 コントラ隊形のカントリー・ダンスが、コミュニティ・ダンスの代表となりました。

○1339--百年戦争
 百年戦争とは、フランスの王位継承権を争う戦争で、
 1339年のイングランドによる宣戦布告から、
 1453年のボルドー陥落までの約100年間続きました。
 イングランドのエドワード三世が、フランスの王位継承権が自分にあると主張して、
 フランスのフィリップ三世に宣戦布告したことが発端です。
 初めはイングランドが優勢でしたが、後半、ジャンヌ・ダルクの出現により形勢は逆転し、
 フランスの勝利となりました。
 結果的にイングランドは、大陸にあった領地を奪われ、わずかにカレー地方を有するのみとなりました。
 この戦争の膨大な資金繰りのため、エドワード三世の孫であるリチャード二世は、
 農民に対し重税をかけ、農奴制を厳しくし、それに反発した国民による反乱が起こりました。
 これを「ワッド・テイラーの乱」と言います。1381年の出来事です。

○1455--薔薇戦争
 1455〜85年、ランカスター家とヨーク家との王位争奪を中心とする封建貴族間の内乱です。
 それぞれ紅と白のバラを記章としたので、「薔薇戦争」の名があります。
 結局ランカスター派が勝ちチューダー王朝が成立しましたが、
 長期にわたる戦いで貴族の勢力は衰え、中央集権化が急速に進んで、絶対主義への道を開きました。
 封建貴族は激減し、宮廷貴族となり、中央に集中するようになりました。
 つまり、地方には貴族がいなくなったのです。
 百年戦争、薔薇戦争、加えてペストが大流行し、イングランドは経済的にも、
 政治的にも非常に不安定な状態となりました。

○バロック時代
 バロックとは、16世紀末から18世紀初めにヨーロッパ各国に広まった文化様式を言います。
 エリザベスの母親であるアン・ブーリンは、若いころフランスに渡り、
 1526年に帰国するまで、礼儀作法とともに宮廷ダンスを習得したそうです。
 当時のイングランドは弱国で、文化の源流はフランスやイタリアにあったため、
 貴族階級はフランスなどに勉強に出ていたのでしょう。
 よって当時のカントリー・ダンスは、フランス式の優雅で華麗な踊りの影響を受け、
 ゆっくりとした音楽と格調高い動きによって表現されていました。

○1558--エリザベス一世女王即位
 エリザベス女王の父であるヘンリー8世王とローマ教皇との対立によって、
 イングランドの宗教は、「イングランド国教会」に変わりました。
 イングランド国教会の大きな特徴は、イングランド統治者が教会の長になることです。
 つまり、ローマ教皇を頂点としたピラミッド型の組織から独立した宗教となりました。
 カソリックから分かれたのです。
 ヘンリー8世がローマ教皇から離れたのは、離婚問題が発端ですが、
 様々な政治的要因があったといわれています。
 カソリックからの分離は、他国のプロテスタントの耳に入り、
 イングランドにプロテスタントの波が押し寄せました。
 プロテスタントとは、「反抗者」の意味で、カソリックに反抗する者たちのことです。
 プロテスタントの運動は16世紀の初めにドイツで起こりました。
 ローマ教皇の絶対主義、組織の腐敗、聖職者の堕落に反発した
 ルターの活動がきっかけとなった「宗教革命」によって本格的に始動したのです。
 イングランドでは、カソリックを支持する者とプロテスタントを支持する者との間で
 多くの死者を出す争いが起こりました。
 これに歯止めをかけたのがエリザベス女王です。
 カソリックとプロテスタントが、お互いを否定し、対立することを戒め、
 共存できる方法として「イングランド国教会」を強化しました。いわゆる中道の選択です。
 エリザベス女王の時代になり、農民のコミュニティ間で盛んに踊られていた
 カントリー・ダンスが宮廷に入り込み、それまで踊られていたフランス、イタリアの踊りを追い越して、
 舞踏会の花形になりました。
 さらに宮廷で成長した踊りは、再び農民にもどり、英国中で大流行しました。
 かくして、階級性のないカントリー・ダンスへと発展したのです。
 エリザベス女王は、踊りが大好きな方で、よく舞踏会を開いていた様です。
 そこでは、女王お得意のヴォルタというカップル・ダンスを披露したともいいます。

○1651--「イングリッシュ・ダンシング・マスター」発行
 「イングリッシュ・ダンシング・マスター」は、
 1651年に、英国ではじめて出版されたカントリー・ダンスに関する音楽書で、
 ダンス誌では世界最古のものとして、大英博物館に保存されています。
 著者は、ジョン・プレイフォード氏 [John Playford] (1623-1686)で、
 17世紀に活躍した音楽図書の発行者です。
 この本は曲(楽譜)だけでなく,ダンスの実際の踊り方をも記したものであり、
 この本があれば、音楽も踊りも把握できるとして大いに売れました。
 ダーガソン、ギャザーリング・ピースコッズ、ニューカッスルなど、
 日本でもお馴染みの曲が紹介されています。
 プレイフォード氏は振り付け師ではありません。
 曲と踊りを収集し、編集し、発行した方です。
 当時流行した踊りを集め、文字にした功績は大きいと思います。
 プレイフォード氏の死後も後継者によってダンシング・マスターは発行され、
 1728年までに約2000の曲と踊りが紹介されました。

○普及
 「イングリッシュ・ダンシング・マスター」によって、
 イングリッシュ・カントリー・ダンスは、英国中に普及しました。
 貴族から平民まで、国中が夢中になって踊ったのです。
 ダンシング・マスターは、箇条書きの様な文章であり、
 ダンスのそれぞれのテクニックやフィギュアは詳しく説明されていません。
 しかし、当時のイングランドにおいては、
 多くの人が知っているステップとフィギュアでしたので、
 フィギュア名だけで読者に動きが伝わりました。
 シングル、ダブル、シャッセー、サイド、アーム、ハンド・ターン、ヘイなどがよく使われたフィギュアです。

○変化
 元は同じ楽譜、解説書でも、貴族には貴族の、平民には平民の好みがありますので、
 曲の感じや踊り方の雰囲気などに変化が生じました。
 ですから、同じ曲でも、いろんなアレンジがあり、
 その違いによって踊りのニュアンスが異なることとなりました。
 月日がたてば変化が変化をよび、
 貴族の踊るカントリー・ダンスと平民によるカントリー・ダンスは、
 まるで別物のように異なる結果となりました。
 その後、他の出版社からもダンス誌は発行され、
 1810年までに、約2000曲の踊りが紹介されたとのことです。
 ダンシング・マスターと合わせれば、約4000曲が紹介されたことになります。

○17世紀末--フランスへ
 17世紀末、イングリッシュ・カントリー・ダンスは、海を渡りフランスへと伝わり、
 メヌエットに飽きていた貴族達に普及しました。
 カントリー [Contry] では、「田舎」の意味があり、宮廷での舞踊の名称にふさわしくないとして、
 対称という意味の「コントル」という言葉を選び、「コントルダンス」という名称がつけられました。
 コントルダンスは、ドイツ、イタリア、スペインにも伝わり、ヨーロッパ中に流行しました。
 コントルダンスから生まれたコチロン、カドリールが流行するまで、コントルダンスは花形として踊られました。
 一方、メイフラワー号でアメリカのニューイングランドに渡った人々が、
 移住の地でイングリッシュ・カントリー・ダンスを踊りました。
 名称を、「コントラ・ダンス」に変え、さらにフランスのカドリール、コチロンなどの影響も受け、
 スクエア・ダンスも踊られるようになりました。
 コントラ・ダンス、スクエア・ダンスは、より多くの人が楽しめるように工夫され、
 コーラーが踊りの順番を伝えながら踊る方法が取られました。
 コーラーによるダンスの誘導は、後にイングランドでも行われることになります。

○1760--産業革命
 産業革命によって工業化と田園生活離れが起こり、時代は近代となりました。
 大量生産が行われるようになり、経験がなくても労働力になるため、
 工場勤務者が増えることになりました。
 結果的に社会構造が変化し、都市化が進み生活習慣にも大きな変化が起こりました。
 イングリッシュ・カントリー・ダンスは、都市化とともにイングランドから消えていきました。
 イングランドには多くの植民地があり、植民地からの農作物輸入とともに、
 未知の文化もイングランドに入ってきました。
 人々の関心は新しい文化にいき、自国の踊りや音楽よりも好んで他国のものを鑑賞しました。
 イングランド伝承の音楽、ダンスの人気は次第になくなってしまいました。

○1906--セシル・シャープ氏による復活
 
 20世紀になり、英国の歌と踊りの研究家であるセシル・シャープ氏が、
 イングランド中の歌と踊りを収集し、研究した結果を本にまとめ発表しました。
 ほとんどの踊りは、消えていましたが、
 田舎では踊る習慣がまだ残っており、それなりの収穫があったようです。
 セシル・シャープ氏は人々に英国の踊りを紹介する時に、
 デモ・チームによるダンスの披露を行い、人々の関心を引き寄せることに成功しました。
 セシル・シャープ氏は、初めモリス・ダンスを中心に紹介していました。
 しかし、モリス・ダンスは男性の踊りであり、女性には不向きであったため、
 イングリッシュ・カントリー・ダンス中心の普及に方針を変えました。
 美しい音楽と知的なフィギュア、社交性が人々を魅了し、
 結果、イングリッシュ・カントリー・ダンスは復活しました。

○1911年--英国民族舞踊協会 (EFDS) 創立
 1911年にセシル・シャープ氏が創始者となり、
 英国民族舞踊協会と民謡協会が創立されました。
 最初の主事も引き受け、イングランド国内だけでなく、
 アメリカへも渡り、伝承された歌と踊りの採集に回りました。
 1932年には、英国民族舞踊協会と民謡協会は合併しました。
 カントリー・ダンスは、学校教育にも導入され、誰もが経験する踊りとなりました。
 しかし、日本のオクラホマ・ミクサーと同様に、
 多くの人々に知られても、卒業後に継続して踊る者はほとんどおらず、
 むしろ幼稚な踊りとして、敬遠、無視、偏見の対象となりました。
 つまり、爆発的な普及には至らなかったのです。
 英国民族舞踊民謡協会は、より昔の音楽と踊りを復活させるために、
 プレイフォード氏のダンシング・マスターを再出版し、解読に取り組みました。
 ダンシング・マスターの踊り方の説明は箇条書き風で、一つ一つのフィギュアの説明がありません。
 17世紀の発行当時は、ダンス教師やベテランがフィギュアを把握しており、
 一般の人々もベーシックなフィギュアを理解していたので問題はなかったのでしょうが、
 産業革命によって途切れてしまった踊りの再現は、決して容易ではありませんでした。
 例えば、サイド(サイディング)というフィギュアは、
 イングリッシュ・カントリー・ダンスの最もベーシックなフィギュアですが、
 この最も頻繁に出てくるフィギュアでさえ実際はよく分かっていません。
 現在は2つの説が有力です。
 一つは、向かい合った二人が左肩パスで位置を交代し、左に半回転して再び相手と向かい合う方法と、
 もう一つは、向き合った二人がやや左斜め方向にダブルを行い、
 右肩を接するように近づき、ダブルで元に戻るという方法です。
 この様にいったん消えた伝承を再現することは、混乱を招いています。
 昔は、誰もが知っていたと思われるサイドの動きでさえ混乱しているのですから、
 より複雑なフィギュアは、ちんぷんかんぷんです。
 まるで、暗号を解く様なものです。
 また、ダンシング・マスターでは、ステップの繊細な記述もありません。
 シングル、ダブルの説明が一行づつあるだけで、
 スリップ、シャッセー、横へのダブル、アナーなどのステップについての説明はまるでありません。
 プレイフォード氏のダンシング・マスターが見直され、ダンシング・マスターの踊りを再現する試みが起こりました。
 それぞれのグループが、ダンシング・マスターを解読し、試行錯誤し、踊りを再現するのです。
 結果として、同じ解説書なのに違う踊り方が発生しました。
 ニューカッスルの様な複雑な踊りは、色々な解釈が生じ、たくさんのパターンの踊り方が生じる結果となりました。

○現在
 スクエア・ダンス、スコティッシュ・カントリー・ダンスの様に多くのファンはいませんが、
 イングリッシュ・カントリー・ダンスのワーク・ショップがアメリカ、カナダ、ドイツ、日本などで開かれており、
 趣味として踊るグループも増えています。
 本来は、コーラーの存在はありませんでしたが、
 コントラ・ダンス、スクエア・ダンスのコール・システムがイングランドに輸入され、
 英国でもコールつきで踊ることが多いようです。

 日本では、あまりイングリッシュ・カントリー・ダンスは普及していません。
 わずかに踊られているものも、アメリカ経由の踊りか、
 日本人向けに変えられた踊りが多いようです。
 イングリッシュ・カントリー・ダンスの気品、風格、社交性、娯楽性、美的センスを
 習得することは難しいのかも知れません。
 「紳士、淑女であれ」という英国の精神をまず知らなければ、
 この踊りは、他のグループ・ダンスとなんら変わらないものとなってしまいます。
 しかし、一度この踊りの魅力に触れたならば、きっと一生涯のテーマとなりうる踊りだと思います。


●2008-11-22-000
●2009-07-15-001